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再開発が目白押し注目を集める 【月島​・勝どきエリアの歴史】

再開発で魅力を増す、もんじゃのまち「月島」

東京メトロ有楽町線と都営地下鉄大江戸線が交差する「月島」駅周辺は、昔ながらのまち並みが残り下町情緒が感じられる商店街が広がるエリアだ。その中でも「月島」駅と「勝どき」駅の間に延びている「月島西仲通り商店街」は、通称もんじゃストリートと呼ばれて親しまれている。

2020(令和2)年12月に「月島」駅付近にある「月島もんじゃストリート」の一角で行われていた、「月島一丁目西仲通り地区第一種市街地再開発事業」。「MID TOWER GRAND」と名前を変え、完成を迎えた。地上31階地下1階のタワーマンションで下層階には飲食店をはじめとしたさまざまな店舗も併設されている。

駅直結、2棟のタワーマンションが誕生予定​「勝どき」

「勝どき」駅の北、清澄通り沿いを対象に行われる「月島3丁目南地区再開発」で約750戸の住宅とショッピング施設などが入る再開発ビルが2024(令和6)年度に完成予定だ。

また、その北側「月島もんじゃストリート」沿いでも「月島3丁目北地区再開発」が進められており、タワーマンションなど3棟を整備し、総戸数約1160戸の住宅だけでなく、ショッピング施設や保育施設などに使われる予定で2025(令和7)年度の完成を目指している。

交通の発達と「月島・勝どき」の架橋

江戸開府当初から防衛と交通の要衝であった江戸・東京の湾岸地域。江戸期より沿岸部の埋立てが始まり、徐々に埋立て地は沖へと拡大していった。埋立てが行われた月島・佃一帯に、明治期以降になると新しく工業地が誕生。労働者が島内に暮らし始めたことによって商業も発展し、渡しや架橋などの島外との交通についても発達していった。

「月島」・「佃島」で最初に島外へと架けられた「相生橋」

築島以来、築地や深川へと架かる橋がなく、渡しなどの船を利用する必要があった「月島」・「佃島」。工業地として発展して行ったことから、明治中期以降になると架橋が望む声が大きくなる。

そして1903(明治36)年になって、新佃島(現・中央区佃)と「中の島」の間に大橋、そして「中の島」と越中島町(現・江東区越中島)間の小橋と2本の橋によって「相生橋」が架橋する。それによって水道管も通された。1923(大正12)年7月には「相生橋」を通って、月島まで市電が開通。しかし、同年9月の震災によって「相生橋」は一度焼失した。

明治後期の「相生橋」 生田誠氏提供

路面電車が通っていた「月島」駅付近

震災時、月島一帯は飛び火によりほぼ焼失する。しかし重要な工業地帯であったことから、震災の復興は早かった。下記の写真の道路は、当時は「月島通り」と呼ばれていたもの。写真の中央を走っている路面電車は、震災の直前である1923(大正12)年7月に開業した市電(のちの都電)・月島線である。写真の左奥あたりに見える高層の建物は、1888(明治21)年に創立した「東京市佃島尋常小学校」だ。震災復興小学校として、1931(昭和6)年に鉄筋コンクリート建築の校舎が完成している。

『日本地理風俗大系 第二巻』 1931年新光社

国内最大規模である跳開橋「勝鬨橋」

1905(明治38)年、「日露戦争」での旅順陥落を記念して「勝鬨の渡し」が開設された。架橋の着工は1933(昭和8)年、その7年後の1940(昭和15)年に完成。それまでの渡し名より「勝鬨橋」と命名されてた。「隅田川」を航行する大型船舶も通航できるように、可動する跳開(ちょうかい)橋として造られている。

1956(昭和31)年の「勝鬨橋」

戦後の道路交通量の増大と船舶通航量の減少によって、1970(昭和45)年を最後に跳開することはなくなった。国内最大規模の跳開橋「勝鬨橋」は、橋梁技術史上的にも高い価値があり、2007(平成19)年には国の重要文化財に指定されている。完成当初から橋上には路面電車のレールが敷設されており、都電も1968(昭和43)年までは通行していた。

本記事は、(株)ココロマチが情報収集し、作成したものです。
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