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多摩川の自然に癒され生活にも便利なまち 多摩川・新丸子エリア

豊かな自然に恵まれ利便性のよい快適な暮らし「新丸子」

新丸子エリアは神奈川県川崎市中原区の東側、多摩川を挟んで東京都田園調布エリアと隣接した場所にあり、東京都と神奈川県の境目に位置する。豊かな自然に加え、便利な買い物環境と交通の利便性に恵まれた、快適な暮らしができる街だ「新丸子」駅周辺には日常生活に欠かせないショッピング施設が充実。さらに、活気あふれる商店街が4つもある。

最寄りの「新丸子」駅は東急東横線と東急目黒線の2路線が利用可能で、「渋谷」駅や「新宿三丁目」駅、「大手町」駅、「溜池山王」駅など東京都心の多くの駅にダイレクトでアクセス可能。東横線は「中目黒」駅の同じホームで東京メトロ日比谷線に乗り換えでき、「六本木」駅や「銀座」駅方面へのアクセスもよい。

多摩川沿いの自然に癒される

「多摩川緑地」は多摩川の両岸の河川敷に整備された緑地。野球場、サッカー場、ゴルフ練習場などのスポーツ施設や、子どもの広場、多目的広場などの広場が整備されている。多摩川沿いの整備されたサイクリングロードでは、散策やジョギングを楽しむ事もできる。また、少し足を延ばせば「等々力緑地」で、深い緑に触れることもでき、自然環境も抜群で、気持ち落ち着くエリアだ。

多摩川の交通と開発で発展

「多摩川」下流の右岸に広がっていた丸子付近。江戸時代以降、「中原街道」の渡し場として栄えた。「南武鉄道」(現・JR南武線)、「東京横浜電鉄」(現・東急東横線)の2本の鉄道が大正末期から昭和初期にかけて開通。「東京横浜電鉄」沿線では住宅開発、学校の誘致も進められ、「多摩川」流域では砂利採掘についても盛んに行われていた。採掘跡地は大規模な都市計画の下、再開発が行われ造成地には公園施設などの施設が整備され、近隣の人々に親しまれている。

「丸子の渡し」と「丸子橋」の架橋

江戸・東京と平塚の中原を結ぶ「中原街道」には、「丸子の渡し」が利用され、渡船集落として発展した上丸子。1935(昭和10)年、住民による度重なる陳情により、アーチ橋の「丸子橋」が開通し「丸子の渡し」は廃止された。東京と神奈川を結ぶ重要な交通ルート「中原街道」がこの橋に通っているため、東京と神奈川で費用は折半した。2000(平成12)年に交通量の増加と老朽化に対応するため、現在の橋に架け替えを行い、より安全で快適に橋を渡ることができるようになった。

1932(昭和7)年の「丸子の渡し」 監修/羽田猛先生 協力/新小杉開発㈱
2000(平成12)年に架け替えられた「丸子橋」

大正末期に始まった「丸子多摩川大花火大会」

1925(大正14)年、「丸子多摩川大花火大会」を開催するため、「丸子園」の二代目・大竹静忠が故郷の愛知県から「三河花火」の職人を呼び寄せた。それにより1929(昭和4)年より、「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)や「東京横浜電鉄」(現「東急」)などの後援により開催。しかし「太平洋戦争」により中断。戦後、1949(昭和24)年には復活し、来場者が100万人を超える人気に。

しかし、渋滞など周辺交通への影響によって、1967(昭和42)年の「丸子多摩川大花火大会」の開催を機に中止となった。近年、復活に向けての動きがあり、2020(令和2)年に試し打ちが行われ、「丸子多摩川観光協会」主催で「丸子の渡し花火」が2021(令和3)年に行われた。

1952(昭和27)年開催時の「丸子多摩川大花火大会」の様子 東急電鉄提供

「多摩川」での砂利採堀と「等々力緑地」

「多摩川」の河床の砂利は、江戸時代には採堀が始まり、「江戸城」周辺の敷き砂利などにも使用された。明治期になると鉄道のバラスト(レール周辺の砂利)などに、大正期頃からはコンクリートの骨材としても利用され、「関東大震災」後の復興期に需要が増大した。砂利の鉄道輸送には多くの私鉄が名を連ね、大きな収益を上げた。「新丸子採取場」の「砂利穴」には合計約8万4,000坪にもおよぶ七つの池が出現し「東横池」と呼ばれた。

この一帯は1941(昭和16)年に都市計画が決定され、「等々力緑地」が誕生。1957(昭和32)年より川崎市が用地買収を開始した後、公園施設の造成が始められ、陸上競技場、市営プール、日本庭園などが順次整備された。

大正末期の「多摩川改修工事」で砂利運搬を担った蒸気機関車
監修/羽田猛先生 協力/新小杉開発㈱

本記事は、(株)ココロマチが情報収集し、作成したものです。
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