港町として栄えた「商都・船橋」、成熟したショッピング施設が集結
古くから港町として栄えてきた船橋。その地名の由来は諸説あるものの、日本武尊(やまとたけるのみこと)が海老川を渡る際に船を並べて橋にしたことから名づけられたという説もあり、「海老川橋」には船橋地名発祥の地の碑が設けられている。近世になると房総往還、御成街道、佐倉街道など、当時の幹線道路が集まる交通の要衝として発展を遂げた。
比較的早い時期に開発された船橋エリアは、成熟したショッピング施設も特徴となっており、「船橋」駅周辺は古くから商業が栄え、「県都・千葉」に対し「商都・船橋」と称されてきた。市内では農業も盛んで、特産品として知られる梨にちなんだキャラクター「ふなっしー」は2011(平成23)年に登場後、徐々にブレイク、2013(平成25)年には、「ご当地キャラクター総選挙」で優勝し、全国的にも知られるようになった。
ベイエリアの魅力があふれる「浜町」
船橋市沿岸部に位置する一丁目から三丁目まである浜町エリアは、いずれも埋立地である。最寄りは「船橋競馬場」駅や「南船橋」駅で、その近隣には大規模な商業施設「ららぽーとTOKYO-BAY」、「IKEA Tokyo-Bay」、「ビビット 南船橋」などが揃う。「ふなばし三番瀬海浜公園」や「谷津干潟公園」などでは、潮干狩りや野鳥観察が楽しめ、ベイエリアならではの充実した環境が整っている。
行楽地として発展を遂げ、現在は商業施設が集まる「船橋」
江戸時代に徳川家の「御菜浦(おさいうら)」でもあった船橋は、古くから漁業が盛んな地。明治時代に入ると津田沼・船橋の沿岸に塩田が開かれ、政府の試験場も置かれた。鉄道の開通をきっかけに、潮干狩りや海水浴客が訪れるようになり、塩田の廃止後その跡地には遊園地や割烹旅館が造られ賑わうようになった。
行楽地として発展していった戦後には、“白亜の温泉デパート“をキャッチフレーズにした「船橋ヘルスセンター」が誕生。戦前から遊園地「谷津遊園」をはじめ、競馬場、オートレース場などもあり、船橋エリア一帯は老若男女が楽しめる東京近郊の行楽地として一世を風靡。その後、レジャーの多様化などの理由から施設の改廃が進み、現在では「ららぽーと TOKYO-BAY」や「イケア」をはじめとする大型ショッピング施設や、大型集合住宅や多目的公園などが集まる地域となっている。
大規模レジャー施設跡に「ららぽーとTOKYO-BAY」が誕生
総合レジャー施設「船橋ヘルスセンター」は、1955(昭和30)年にオープン。天然温泉の大浴場をはじめ、遊園地やプール、舞台などもあり、年を重ねるたびに新たな施設が誕生していった。その後、遊覧船、遊覧飛行場、モノレールなど陸・海・空の乗り物や、人工スキー場、人工ビーチ、自動車レースを行う「船橋サーキット」なども次々誕生。充実した大規模な行楽エリアとなり、一世を風靡した。
その後、来場者数は減少。地盤沈下抑制のため1971(昭和46)年に温泉・ガスの汲み上げを差し止められたことで拍車がかかり、1977(昭和52)年に閉園。その跡地には日本最大規模の大型商業施設「ららぽーと船橋ショッピングセンター(現ららぽーと TOKYO-BAY)」が1981(昭和56)年に開業した。
船橋の沿岸エリアの産業と観光
明治初期~中期にかけて船橋の海岸部に開かれた4か所の塩田。そのうちの1つである「三田浜塩田」は、1929(昭和4)年に廃止。3番目の所有者は前々年に割烹旅館を創業し、塩田の跡地を行楽地「三田浜楽園」として一帯を新たな観光地として発展させた。
総面積約4万坪を誇り、娯楽や玉突、児童遊戯、野球場などの設備が整い、また動物を飼養する所も。なかでも約1,800坪の海水プールが人気を呼び、夏季には東京や遠方から来遊する人たちが多かったという。
塩田の1つ「谷津塩田」の跡地は「京成電気軌道」が1925(大正14)年に買い取り、「京成遊園地」(のちに「谷津遊園」へ改称)を開いた。当時はプール、釣り堀、動物園などがあったそうだ。
「読売新聞社」社長の正力松太郎が、1934(昭和9)年にベーブ・ルースなどを擁する野球の全米オールスターチーム招聘を決め、「谷津遊園」内に練習用の野球場「国際野球場」を建設。このとき六大学野球選手を中心に全日本チームが編成され、日米両軍の合同練習も行われた。
その後、全日本チームが「東京巨人軍」(現「読売ジャイアンツ」)へ発展。この地がホームグラウンドとなった。下図は「谷津遊園」の1935(昭和10)年頃の園内図で、右上に「国際野球場」が描かれている。
―――――以下、注釈について―――――
本記事は、(株)ココロマチ が情報収集し、作成したものです。
記事の内容・情報に関しては2022年11月時点のもので、今後変更の可能性があります。