進化を続ける暮らしやすい街「武蔵小杉」
川崎市のほぼ中央に位置する川崎市中原区。なかでも、再開発により成長著しい「武蔵小杉」駅周辺は、近年人気の住宅地として発展してきた。充実のショッピング施設、安心の子育て環境、利便性の高い公共施設と、暮らしに密接に関わるスポットがコンパクトにまとまっているのも魅力の一つだ。
東急東横線とJR南武線に加え、東急目黒線、JR横須賀線、JR湘南新宿ラインが乗り入れ、交通アクセスの利便性も抜群だ。また「成田空港」へ向かう特急成田エクスプレス号や「羽田空港」直行のバスを利用でき、各空港へのアクセスも快適。ここでは大規模な開発が行われ、複数のタワーマンションが建ち並ぶ、日本でも有数のタワーマンション街になっている。
コンパクトに利便の詰まった街
再開発に伴って、暮らしの利便性に恵まれながらも、武蔵小杉エリアの周辺は緑に溢れ、潤いのある自然環境が広がっている。多摩川も近く、ジョギングやサイクリングも楽しめるほか、駅の西側にある「川崎市中原平和公園」では、遊具、芝生エリアなどもある大型の公園で、子どもたちにも大人気だ。
さらに、駅近くに「川崎市中原区役所」や「神奈川県警察中原警察署」、「川崎市中原市民館」が立っている。また、駅直結の「武蔵小杉東急スクエア」5・6階には、「川崎市立中原図書館」があり、2021(令和3)年9月には、「日本医科大学武蔵小杉病院」の新病棟が整備された。コンパクトに利便性が詰まった暮らしやすさもこの街の魅力の1つだろう。
鉄道とともに発展を遂げた「武蔵小杉」
「多摩川」下流の右岸に広がりる武蔵小杉周辺は、江戸時代以降「中原街道」の渡し場として栄えた。大正末期から昭和初期にかけ2つの鉄道「南武鉄道」(現・JR南武線)、「東京横浜電鉄」(現・東急東横線)が開通。住宅開発、学校の誘致も進められた。
1910年代頃より川崎は臨海部が工業地として発展。1930年代に入ると、塩害の影害がない「多摩川」沿いの内陸部、武蔵小杉一帯に多くの工場が進出する。戦時下においては軍需で繁栄し、戦後は工業地域として発展した。近年になると、その工場跡地を活用した大規模な再開発が実施。大型商業施設も続々と開業し、高層マンションなども建ち並ぶ現在は、暮らしに便利な人気の街となっている。
「南武鉄道」と「東京横浜電鉄」の誕生
立川と川崎結ぶ「南武鉄道」(現・JR南武線)は、「多摩川」の砂利輸送を目的として設立された鉄道。沿線の工業地へ向かう工員の足として、また原材料や製品の輸送などに利用された。
そして住宅地開発や学校の誘致、観光開発などを積極的に行った、渋谷と横浜をつないでいる「東京横浜電鉄」(現・東急東横線)沿線。この「南武鉄道」「東京横浜電鉄」の両線は「武蔵小杉」駅の場所で立体交差していたものの、当初は乗り換え駅が設けられていなかった。
「武蔵小杉」駅と「工業都市」駅
当初、「東京横浜電鉄」には「武蔵小杉」駅はなかった。この一帯に1935(昭和10)年から5年ほどの間に大企業の工場建設が相次ぎ「新丸子」駅と「元住吉」駅の間に「工業都市」駅が、1939(昭和14)年に新設された。
「工業都市」駅から北に200mほどの場所となる国鉄南武線との交差部分に、1945(昭和20)年、「武蔵小杉」駅が開業。1953(昭和28)年になると、「武蔵小杉」駅と統合される形で「工業都市」駅は廃止となった。現在、跡地は駐輪場などに利用されている。
住宅地の開発とまちづくり
神奈川線(現・東急東横線)の工事と並行して、「東京横浜電鉄」は「田園都市株式会社」と共同し、「新丸子」「日吉」エリアの土地を買収。1926(大正15)年の神奈川線開通を機に、同地で分譲を開始し、その後も沿線の未開発の土地を整地し販売していった。
沿線に家が一件建つことで年間100円の運賃収入が見込まれていたため、土地購入者には優遇策も行なった。購入後半年以内に住宅を建築した場合に有効期間1年の無料乗室証を付与。低金利での住宅資金の貸し付けも行なっていた。また大学の誘致にも力を入れ、1929(昭和4)年の「慶應義塾大学予科」の日吉移転を皮切りに、次々と大学の誘致も成功。旅客増だけでなく、住宅開発にも大きな貢献をしている。
―――――以下、注釈について―――――
本記事は、(株)ココロマチ が情報収集し、作成したものです。
記事の内容・情報に関しては2022年11月時点のもので、今後変更の可能性があります。