閑静な佇まいのベッドタウンと文教地区「稲毛」
現在の稲毛海岸周辺は昭和30年代ころまでは遠浅の海が広がり、海水浴や潮干狩りのできるリゾート地として人気を集めていた。とくに明治中期から昭和初期にかけては保養地、避暑地として多くの別荘が建ち、著名人や文化人も訪れていたという。その後、稲毛は別荘地としての格式を保ちつつ住宅地として発展。現在は閑静な佇まいのベッドタウンとして人気を集めるようになった。
稲毛は陸軍の施設や軍用地が多かったため終戦後、復興に向けて大きくその姿を変えた。戦後の食糧難と居住と生活の確保のため、軍用地が農地の開墾の対象となり、大規模な入植が行われた。
一方で、陸軍の学校や施設が集中していたエリアでは、急きょ、千葉市における文教地区へ変貌を遂げることになった。今では、区内に千葉大学や敬愛大学、千葉経済大学の3大学のほか、研究機関が立地している。現在も区内にある3大学と連携しながら、学生・若者と共に挑むまちづくりを進めている。
都心や「成田空港」へアクセス利便性が高い街
「稲毛」駅にはJR総武線の各駅停車のほか快速も停車する。「東京」駅や「品川」駅には快速、「秋葉原」駅や「新宿」駅には各駅停車でそれぞれダイレクトアクセス可能だ。
「成田空港」への直通電車もあり、旅行や出張の際のアクセスも良い。国道14号千葉街道や国道16号など幹線道路が多く、自動車も使いやすい。京葉道路の「穴川」ICも近く、接続する首都高速道路や東関東自動車道、館山自動車道で東京都心や房総方面、「成田空港」などへ快適に移動できる。
文人や財界人に愛された別荘地
江戸時代には佐倉堀田藩所領や旗本知行地として、稲毛の一帯は農業が営まれていた。1899(明治32)年になり開通したのが総武鉄道だ。
総武鉄道に加え、さらに1921(大正10)年に京成電鉄が開通すると、東京から1時間という利便性もあり、海水浴場や潮干狩りを楽しむ日帰りの行楽地として賑わった。海岸沿いは多くの旅館や店が立ち並ぶ一大保養地に。とくに稲毛海岸の美しい海と松林は多くの文人や財界人に愛され、別荘地として栄えていった。
文人に愛された別荘地
現在の国道14号の辺りは、かつて遠浅の海岸だった。1888(明治21年)に千葉県ではじめての海水浴場が開かれた。海水浴は当時、諸疾病に対する治療法として提唱されており、「稲毛海気療養所」医学士の濱野昇によって設立された。
その後所有者が変わり、別荘風旅館「海気館」として宴会や行楽などにも用いられた。森鴎外、島崎藤村など多くの文人墨客が滞在。中戸川吉二の『北村十吉』、里見弴の『おせっかい』、田山花袋の『弟』などの多くの文学作品にその名が登場している。
日本の“ワイン王”の来賓用別荘「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」
神谷伝兵衛は、浅草で日本初の洋酒バー、電気ブランで有名な「神谷バー」を開店。国内で葡萄園やワイン醸造場「牛久シャトー」を建設した「日本のワイン王」といわれた実業家だ。
来賓用別荘として1918(大正7)年に建てられた別荘は、1階は洋室、2階は和室になっている、当時では珍しい鉄筋コンクリートつくりの洋館だ。玄関ホール天井のシャンデリアの中心飾りにぶどうがあしらわれ、和室の床柱にはぶどうの古木が使用されるなど、ワイン王としてのこだわりが随所に見られる。国の登録有形文化財にも登録される貴重な建物となっている。
軍郷「稲毛」と「ラストエンペラー」
「ラストエンペラー」(清朝最後の皇帝)として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟である溥傑(ふけつ)と、嵯峨公爵の長女である嵯峨浩が新婚時代を過ごした家が、現在「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されている。
明治から昭和の初めにかけて、陸軍歩兵学校をはじめとした陸軍の学校や演習場、関連施設などがあった稲毛。溥傑が当時作草部町にあった陸軍歩兵学校に在籍していたことから、夫妻は1937(昭和12)年からの半年ほどをこの家で過ごした。
その後の日本の敗戦により波乱の人生を送った二人にとって、稲毛で過ごした新婚時代の半年間は穏やかで平和な時代だったのかもしれない。
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