再開発で暮らしやすさも向上「新川崎」
川崎市の東部に位置しする川崎市幸区は近年、再開発によって暮らしの利便性が向上したことからベッドタウンとして人気が高まっているエリア。また「新川崎」駅周辺に位置する新川崎エリアでは東洋一の規模といわれた国鉄の「新鶴見操車場」跡地において再開発され、計画的に造られたまちならではの利便性が育まれている。
最先端技術の研究拠点として、「新鶴見操車場」跡地の開発を進めた川崎市。2000(平成12)年の「慶應義塾大学新川崎タウンキャンパス」の開校をはじめ、またパイオニアのホームエンターテイメント製品の研究開発施設「パイオニア川崎事業所」やベンチャービジネス創出支援施設「かわさき新産業創造センター」が誕生したことで、アカデミックな雰囲気が漂うように。「新川崎」駅交通広場や鹿島田こ線歩道橋の整備がなされ、周辺のエリアを含めて利便性が高まっている。
交通アクセスの良さも魅力
JR横須賀線とJR湘南新宿ラインが利用可能な「新川崎」駅は、JR横須賀線 「品川」駅や 「東京」駅をはじめ、JR湘南新宿ライン 「大崎」駅や 「新宿」駅にもそれぞれダイレクトにアクセスでき、東京方面への通勤・通学がスムーズ。「横浜」駅へはわずか1駅で移動できるため、横浜市中心部に短時間で移動できるのが魅力。新 JI|崎エリアからはJR南武線の 「鹿島田」駅も徒歩圏内だ。 「鹿島田」駅からはJR南武線で 「川崎」駅や 「立川|」駅方面への移動もしやすい。
古墳時代から連なる歴史
「新川崎」駅や「鹿島田」駅からも歩ける距離にある加瀬山の大部分は、「夢見ヶ崎公園・動物公園」になっている。緑豊かな憩いの場として、このエリアに潤いをもたらしている。この土地に築城しようとした室町時代の武将・太田道灌の見た夢に由来して「夢見ヶ崎」という地名が名付けられたと言われている。
新川崎エリア周辺には赤穂浪士に憩いの場を与えたとされる軽部五兵衛の墓所がある「了源寺」をはじめ、北条氏直によって建立された「熊野神社」など歴史を感じられるスポットも多数ある。
4~5世紀頃に築かれた「夢見ヶ崎古墳群」
加瀬山台地一帯は、関東地方でも有数の古墳群「夢見ヶ崎古墳群」だ。「白山(はくさん)古墳」は4世紀後半頃に築かれた武蔵国でも最古の大形の前方後円墳で、発掘された「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」は、大和朝廷との関係を物語る重要な資料だ。
また、後円部下側からは、平安時代末の12世紀後半頃に焼かれたものと考えられる「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」が発見された。昭和28(1953)年には国宝に指定され、現在「秋草文壺」は東京国立博物館に寄託されている。
鹿島田と地名の由来ともなった「鹿島大神」
“鹿島さま”の名で親しまれている「鹿島大神」は、かつては現在の「新鶴見操車場」の中央にあったが、昭和元年に現在地に移転。創立年代は不詳だが、言い伝えでは、鎌倉時代に開墾に入った人々により「鹿島神宮」から勧請して創建されたといわれる。
開墾によって水田ができると村の鎮守である「鹿島大神」に寄進したそうだ。鹿島の水田から「鹿島田」という地名になったといわれる。この土地はその後、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に寄進され、鹿島田郷として鶴岡八幡宮文書や円覚寺文書にもその名が見られる。
日本初の公営工業用水源、鹿島田の「二ヶ領用水」
江戸初期に、幕府が体制作りのために開削した農業用水「二ヶ領用水」。「稲毛領」から「川崎領」へとまたがることから、「二ヶ領」と呼ばれていた。1597(慶長2)年、用水奉行となった徳川家康の家臣・小泉次大夫が測量を開始。1611(慶長16)年に完成し、「多摩川」から用水を取水された。下記の画像は明治初期に描かれた『二ヶ領絵図』。「稲毛領」や「川崎領」を概念的に描かれており、赤い線が道で中央付近を縦に走っているのが「中原街道」である。
時代の推移とともに、農業用水から工業用水道としての役割も果たすようになり、鹿島田の「二ヶ領用水」が「南武鉄道」(現・JR南武線)とが交わる場所付近に建設され、日本はじめての公営工業用水源となった。
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